「最古の?金日成バッヂ」発見について 〜「1946年製 金日成バッヂ」を発見!?〜

 一頃あんなに盛り上がった北朝鮮報道合戦も、最近はなんだかすっかりなりを潜めてしまった様子。北朝鮮に関するあらゆる問題は、全く解決していないのだが、要はみんなが北朝鮮ネタに飽きたということだろう。本当は飽きる飽きないの問題じゃないと思うんだが・・・。 

 そんな中、最近は更新をすっかりご無沙汰してしまったが、当委員会では北朝鮮ネタは相変わらず追い続けている。おかげで、しばらく前、待望のブツが入手できたので報告したい。
 このサイトでも、数多くのバッヂ画像を公開しているが、こうして見ていると、誰でも「金日成バッヂって、いつから作られ始めたのだろう? そしてそれはどんなモノだったろう?」という疑問を自然に抱くのではないか。

 北朝鮮に関する情報は、昔に比べれば格段に増え、金日成バッヂも知名度が上がり、関心を持つ人もずっと増えた。だが、一歩踏み込んだ情報を与えてくれる人は誰もいないのである。まあそれがこのサイトを立ち上げたそもそもの動機である。だから、ここでは誤りをおそれず、「最古の(?)金日成バッヂ」について、現段階で考えられることを総合しながら検討してみたいと思う。所詮こっちは研究者でも何でもないただのマニア。開き直ったところで実害などどうせなんにもないのである。

 まあ、何か情報をお持ちの方がおられましたら、気軽に連絡いただけるとありがたいです。

 問題のバッヂの入手先は、某サイトを通じて、中国遼寧省に住む中国人からである。実はこのバッヂ、ずっと昔、やはりネット上で同じモノを見たことがあった。一見して、それまで見たことのない北朝鮮のバッヂだと思った。でもそれは売り物でなかったのであきらめざるを得ず、手にとって裏面や全体のツクリをじっくり見てみたいと思っていたので、やっと念願かなったというところだ。喉から手が出るほど欲しかったのにどうしようもなかった、その時の私の無念も察して欲しい。
 やっと再会できたこのバッヂだが、実は購入価格は500円もしなかった(送料の方がずっと高かった)。
 正直保存状態もよくないし、まあ関心のない人にとっては確かに欲しくなるモノではないから、こんなものか。

 では、さっそく画像を見て欲しい。

これが問題のバッヂ表裏の画像。直径は約32mm。

表面:「八一五誕生遺児一周年記念」
裏面:「西紀 一九四六 平安北道人民委員会 八月十五日」

 銅製で、直径約32mm。表面の傷、歪みがあって、リボンなどからつり下げるためのループが上部に取り付けられていたはずだが、これも失われている。保存状態が悪いのが惜しまれるが、それでも読み取れる情報は多い。少なくとも、製造時期と場所がはっきりしているのは、大きな手がかりである。

 表面は中央に金日成とおぼしき背広姿の男性肖像。頭部左側の部分に表面がにえぐれたような傷ができてしまっていて、顔がよくわからないのがつくづく残念である。よく見ると両腕の部分がそぎ落とされたようになっていて、描かれているのは胸像として描かれている。肖像の周りは、左右からコーリャンのような穀物が囲んでいる。下の方には、ハングルで「八一五誕生遺児一周年記念」とある。実は、このハングルがどうしても解読不能だったので、韓国語の専門家に画像をメールして解読してもらったので間違いはないはずだ(協力くださった方には、心から感謝申し上げます)。
 裏面には、表面ではすっかり失われてしまった銀メッキがかなりの部分残っている。元は銀色に輝くバッヂであったはずである。こちらには漢字が記されていて、「西紀一九四六 平安北道人民委員会 八月十五日」とある。

 1946年8月といえば、北朝鮮が建国する2年以上のことである(建国は1948年9月9日)。本邦初公開・・・かどうかは知らないが、今まで確認した中で、最も古い金日成バッヂである。

 ところで、問題は、このバッヂはホンモノなのか?ということだ。そして、そもそもここに描かれているのは金日成その人なのだろうか?他に類似のものがないので比較のしようがなく、たったひとつのバッヂでだけで判断するのは難しいが、いくつかのポイントに分けて考えてみよう。

 1 1946年8月当時の北朝鮮の状況と、このバッヂの存在の合理性。当時にあって、このアイテムの存在は矛盾がないかどうかの検討。
 2 この肖像の人物は、金日成なのか。当時の写真との比較などによる検討。
 3 バッヂ本体の問題点。不自然なところがないかどうかの検討。
 4 その他の視点からみた真贋の検討。


 これらを通じて、私なりに総合的に判断してみたい。・・・まあ、どういう検討をしたところで、結局本当のところはわからないんだけどね(といってはミもフタもないが)。

1 1946年8月当時の北朝鮮の状況と、このバッヂの存在の合理性
 まず、バッヂに記されている「1946年8月」における北朝鮮はどうであったのか。当時、北朝鮮の地方組織がこのようなバッヂを作るような作ることに不合理な点はないのか。

 1945年8月の日本敗戦当時、北朝鮮(北緯38度線以北)には、行政区分として5道(日本でいえば「県」に相当)があった。
 すなわち、咸鏡北道、咸鏡南道、平安南道、平安北道、黄海道である。
 アメリカとの合意により、38度線以北へ進駐したソ連軍は、各道に朝鮮人による自治組織を組織させ、それを間接的に統治する方針をとった。その行政機関が、「人民委員会」であった。
 1945年10月、5道人民委員会連合会議が開催され、全地域にまたがる行政局(教育局、産業局、司法局などの10局)が設置され、ソ連軍顧問が配置される。こうして北朝鮮地域における行政組織は整えられていった。

 このバッヂが作られた平安北道では、1945年8月15日、当時の平安北道知事(山地靖之?)は、朝鮮人民族主義者の李裕弼に協力を求め、新義州治安維持会が結成された。それが拡大して、同月26日には平安北道自治委員会が成立し、さらにソ連軍到着後の同月31日には平安北道臨時人民政治委員会が行政を握ることとなる。のち、道間で不統一だった機関名は、「人民委員会」の名に統一されていき、平安北道でも、平安北道臨時人民政治委員会から、平安北道人民委員会へと改称された。
(平安北道の場所は、左の地図参照。朝鮮半島の西北部に位置し、北は鴨緑江を隔てて中国と接する。なお、1954年に東部が慈江道となって分かれ、現在に至っている。)

 地方行政機関が各クラスの人民委員会として整備されていく一方、共産主義政党の建設も進められていく。
 戦後、金日成がウラジオストクから、元山を経て、平壌入りしたのは1945年10月14日である。
 金日成は、「40万平壌市民との感激的な再会の場で、新しい民主朝鮮を建設するためには、力のある人は力で、金のある人は金で、知識のある人は知識で建国事業に貢献し、祖国と民主を愛する全民族がかたく団結して民主主義自主独立国家を建設しようと訴えた。」・・・と北朝鮮の公式資料にはある(「輝かしい生涯」 1995年)。

 だが実際には、ソ連軍にとって、金日成だけが最初から北朝鮮の政治指導者として唯一の候補者であったわけではない。
 金日成は、ソウルに中央をおく朝鮮共産党の北朝鮮支部、「朝鮮共産党北朝鮮分局」が設置されたのが1945年10月。金日成はその指導者として頭角を現していった。
 一方、平壌を拠点に活動していた民族主義者で独立運動家、キリスト教徒でもある゙晩植も党首となって、1945年11月に朝鮮民主党が結成された。ソ連軍の意に反した政党活動であれば絶対に不可能だったはずである。
 ソ連軍当局は当初、゙晩植を首班とするブルジョワ民主主義政権の形成を企図していたようだ。゙晩植を政治指導者に、金日成は軍事指導者とする構想を抱いていたらしい。
 しかし、米英ソによる朝鮮の信託統治の後、独立させるというモスクワ会議の方針に、民族主義者の゙晩植は反対を表明。さらに共産主義に批判的であるとソ連軍側から見なされだ晩植は、ソ連に敵対的な存在とされ、排除の対象となっていく。
 1946年2月、ついに゙晩植は朝鮮民主党の党首を解任される。゙晩植は、1950年の朝鮮戦争勃発直後に病死。一説には秘密裏に処刑されたともいう。

 ゙晩植が切られたことによって、金日成は、北朝鮮の政治指導者として主導権を握っていくことになる。だがおそらく、金日成はソ連への不信感を募らせただろうし、しかし絶対にソ連に反抗的と見なされてはならないことも、ソ連軍の後ろ盾が必要なことも、同時に理解し抜いていただろう。金日成はモスクワ会議の決定に賛成を表明、ソ連の信任を得ていく。

 当初、南側のソウルに中央をおく朝鮮共産党の北朝鮮支部という形からスタートした朝鮮共産党北朝鮮分局は、1946年2月、北朝鮮臨時人民委員会を設置し、行政機関を統制下においた。同年3月、朝鮮全土での土地改革を宣言、1か月の間で地主の土地を没収、貧農や雇農に土地を分配し、党員を増大させる。地方人民委員会内に起こった性急な土地改革への批判分子を駆逐して、体制を強化した。
 1946年5月から、朝鮮共産党北朝鮮分局は、「北朝鮮共産党」と名を改め、さらに同年8月から「北朝鮮労働党」となる(現在の「朝鮮労働党」結党は1949年6月)。ソウルを中心とした共産党勢力から距離を置き、独自に北からの全土解放を目指す姿勢を示した。
 1946年9月、平壌市を道と同格の「特別市」に制定。実質的な首都化が進められていく。
 1946年11月、道、市、郡人民委員選挙が実施され、北朝鮮民主主義民族統一戦線の候補者が圧倒的賛成票を得て当選。これを受けて北朝鮮人民会議及び金日成を委員長とする北朝鮮人民委員会が設置された。
 1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国、建国を宣言。
・・・・・・・

 長くなったが、第二次世界大戦終結から1年後の、1946年8月前後というのは、金日成体制にとって非常に重要な時期であったことがわかる。
 金日成主導による土地改革による大規模な社会改造、労働党の南からの独立、さらに朝鮮北部での独自国家の樹立への動き・・・。
 金日成は当初からソ連軍の後ろ盾を得ていたとはいえ、北朝鮮における基盤は脆弱だった。平壌を中心に独立運動を行っていだ晩植とは異なり、満州地域の抗日パルチザンであった金日成には、基盤となる自己勢力がなかったからだ。金日成派にとって、国内の基盤をいかに築いていくか、それが極めて深刻かつ重要な課題であった。

 北朝鮮における金日成中心の体制が強力に推し進められている時期であることからしても、こうしたバッヂが地方機関で作られている可能性は高い・・・・ということで次の検討に移りたい。

2 この肖像は、金日成なのか?
 この時期に残されている金日成の写真は、その多くが背広姿である(理由はよくわからない)。
 1946年頃の金日成の写真を何点かピックアップしてみる。金日成は1912年生まれなので、当時は33〜34歳頃ということになる。確かに、いかにも若い。
 (各写真及びキャプションは、「輝かしい生涯」による。)

1945年10月「平壌歓迎市民大会で演説をおこなう偉大な領袖金日成同志」 1946年7月「北朝鮮民主主義政党・大衆団体代表会議で報告をおこなう偉大な領袖金日成同志」
1946年8月「北朝鮮労働党創立大会で報告をおこなう偉大な領袖金日成同志」 1946年10月「江東郡三登面に出向いて選挙民の前で演説する偉大な領袖金日成同志」
1946年1月「第1回北朝鮮民主青年同盟代表大会で演説する偉大な領袖金日成同志」

 バッヂの肖像は、むしろ稚拙ですらあって、仮に傷がなくてもモデルの人物を特定するのは難しいだろう。服装も、金日成の当時の写真と背広姿であることは共通していて矛盾がない、ということしかいえない。
 他の指導者、例えば道の人民委員会の委員長という可能性はどうだろう?その可能性も否定はできない。

 だが、肖像の見た目で判断ができなくとも、バッヂの内容から推測することはできる。肖像の下には、「八一五誕生遺児一周年記念」と書かれているのだ。

 書かれている内容を知ったとき、私は「遺児って何だ?」と、その単語に違和感を持ったものだが、「8月15日に生まれた親のない子」というのが、「祖国・朝鮮」を指していることは明らかであろう。保護者のいない脆弱な乳児に祖国をなぞらえて、これからは自主独立の道を進んでいこうという意志が感じられる。

 そう考えれば、この語句が誰に捧げられたものかは、自明である。
 祖国朝鮮を解放した英雄、つまり金日成その人だ(史実はともかくとして)。

3 バッヂ本体に、不自然なところがないかどうか
 余談だが、バッヂなどの画像をを取り込むとき、デジタルカメラを使う派と、スキャナーを使う派があるのだが、私は断然スキャナー派である。ブレやピンぼけもなく、狙い通りの画像を安定的に取り込めるからである。
 だが、上手くすればデジタルカメラの方が、自由な角度から写せるので質感や立体感をよく出すことができる。
 要は一長一短なのだが、ここではデジタルカメラの接写モード(虫眼鏡モード)で撮った画像で、バッヂを詳しく見てみたい。

@ 表面のアップ。頭部左側を中心に薄くえぐれている。全体に摩滅痕はあるものの浮き彫りの凹凸はシャープさがある。メッキはほとんど残っていない。 A ほぼ全体的に銀メッキが残っているが、文字の凸部は摩滅により銅の地が露わになっている。
B 上部側面。バッヂの真上部分に、やや目立つ傷がある。本来はこの部分にループがついていたはずである。大きな力が加わったと見えて、ややバッヂが歪んでしまっている。 C 上部側面。この辺にループがあった。


 まず、画像@。浮き彫りの表面の様子がわかる。摩滅は見られるが、洋服や葉や穂の凹凸はシャープである。ダイキャスト法(溶けた金属を鋳型に流し込んで作る製法)ではなく、プレス法(彫刻した金型で高い圧力を素材にかけて打ち出す製法)で作られたバッヂであることがわかる。
 ニセモノには、ホンモノ(または再現した原型)を元に、粘土などで型を取って、ダイキャスト法で作る方法がある。ダイキャスト法では、大がかりなプレス機や、やっかいな金型彫刻の手間が不要というメリットがある。ただ、欠点は表面の凹凸がどうしてもぼやけた感じになってしまうことだ。ホンモノを型にとればそっくりなモノはできあがるが、どうしても細部のシャープさが失われるのである。
 が、まあダイキャストによるニセモノ作りは、ニセモノの中でもかなり安手な部類である。ニセモノでももちろんプレス機を使ったものはたくさんある。
 画像A。このバッヂでは、裏面に銀メッキが残っていることが印象的だ。おそらく元々は全体に銀メッキが施されていたのだろう。安上がりなニセモノにとっては、銀メッキもちょっとしたハードルである。しかも、このニセモノを作ろうとすると、メッキ処理後、さらに表面だけメッキが剥がれるようにわざわざ時代付け(傷や汚しをかけて古く見せかけること)をしなくてはいけない。
 画像B。さらに、上部の傷である。以前同様のバッジを見たことがあると書いたが、それには、バッジ本体の上にループが取り付けられていた。このバッヂではそれがなくなっていて、上側を確認すると、確かにはっきりと傷が残っている。スッパリ切られたのではなく、もぎ取るように取れてしまった部分を、後で少し直したという感じだ。
 画像B、C。かなり大きな力が加わったらしく、バッヂ全体が少し歪んでいる。この傷の付き方といい、ゆがみ方といい、このバッヂの上の方を何かに差し込んで、テコの原理でもってこじ開けようとしたかのようだ。そして、そのテコの支点の部分となったのが、肖像の顔のあたりで、大きな力がそこに加わって凹み、傷になってしまったのではないか。そんなラフな使い方で、ループ部も取れてしまったのではないか。こじ開けるのに邪魔だからとわざと取られてしまったか、ループがなくなっていたからこじ開けるのに使われたか・・・。
 誰かが何かをこじ開けたりするのにこのバッヂを使った、というのは想像に過ぎないが、この歪み方や傷を見ていると、結構説得力があるように思える。

4 その他の視点からみた真贋の検討
 このバッヂがニセモノであったとすると矛盾点がいくつかある。いくつかの点について、検討してみよう。

あまりにも売価が安かったこと。ニセモノだとしたら、どう考えてもまったく儲けにならない。ニセモノこそ、逆にもっと高く売らねばならない。
・今までに、このバッヂを含めて2つしか見たことがないこと。つまり、数はあまりないのではないと思われる。ニセモノは量を作らなければならない。型を彫刻しなければならないプレス製法バッヂの場合はなおさらである(プレスの型を彫刻するのは大変なのだ)。だから、まとめて大量に作ることが絶対に必要である。もし安いニセモノなら、なおのこと大量に作らないと話にならない。ニセモノだとすれば、こんなに市場に出回らないのは不思議だ。
漢字とハングル併用は、他の北朝鮮の初期バッヂにも見られ、自然なこと。逆に漢字かハングルか、どちらかだけでないことが信憑性を感じさせる。これは根拠じゃなくて、私の印象だけど。
「西暦」を「西紀」と表記するのは、確かに韓国ではそうなっている。40年代中頃の北朝鮮でどうなっていたかは不明だが、この表記が行われていたと想定するのが自然だろう。中国でも「西暦」または「公暦」で、「西紀」という表記はない。
・わざわざ時代付けのために、肝心の顔に大きな傷をつけるのはちょっとやりすぎと思われること。そこまで価値を落としてどうする? わざとならもう少し当たり障りのない傷で済ますのではないか。顔のできが悪くてそれをごまかすために傷でごまかしたという可能性も考えられるが、それにしては、その上さらにループをもぎ取ったり、全体が歪むほどの力を加えたり、時代付けにしては不自然に手荒すぎる感じがする。これはもう時代付けじゃなくて、単にぞんざいに扱われていたとしか思えない。
・このバッヂが中国から出てきたことについてはどうだろう。直接的には、なんとも判断ができない。ただ、ここ10年ほどの間、中朝間の物流の増大により、いろんな北朝鮮の品が中国に出回っているのは事実。私自身、50年代初期の北朝鮮バッジなら何点もすでに中国で入手している。それが40年代半ばのものだとしても、だからありえないということはない。むしろ充分にありうることでもある。

まとめ、上記を踏まえた私なりの結論
 だいたい初めから結論は見えているのだが、いやそれだからこそわざわざ買ったのだが、私はこのバッヂは(少なくとも現段階では)ホンモノと見ている。上記1〜4についての結論は、とりあえず次のとおり。
1 時期及び発行した機関とバッヂの内容に矛盾がない。
2 肖像の人物が金日成とは断定できないが、書かれた文字からそれが最も妥当と思われる。
3 ニセモノにしては手が込みすぎている。
4 ニセモノにしては、あまりにもそれらしく装われていなさすぎる。市場で全然見かけないのもおかしい。


 まあ、1から4まで、遊びでいろいろ考えてみた結果はこれだ。結局の所ホンモノと考えるのが一番無理がなさそうに思える
(もっとも、後でニセモノだったということが判明しない保証はないけど。その時はまた発表しますんで、今日の所はこんなところで。)

金日成バッヂの歴史はどこまでさかのぼれるのか
 このバッヂは、1946年8月製で、私が知る中で最も古い金日成バッヂである。果たして、これよりもっと古い金バッヂはあるのだろうか?
 もちろん可能性はある。が、これ以上さかのぼれる余地はかなり少ない
 金日成がソ連から朝鮮に英雄として迎えられたのは、1945年10月だ。このバッヂの製作から、たかだか10か月前に過ぎない。ソ連にいたときから金日成崇拝のためのバッヂが作られていた可能性はないだろう。あくまで「初デビュー」は1945年10月なのである。さらに、実際に金日成が絶対的な政治指導者ナンバーワンの地位を確立したのは、゙晩植がソ連側から見切られた後、早くても1945年末から1946年の初め頃と考えられるから、それ以前に金バッヂの登場する可能性はさほど高くない。そのような理由から、私はこの一枚が「最も古いバッヂ、または最も古いバッヂに限りなく近いバッヂ」と考えている

 平安北道の人民委員会で作られている以上、この時期、1946年中頃には、他の道や各種の組織でも、似たようなものが作られている可能性はある。
 それがどんなものか、もしあるなら、なんとしても見てみたいと思う。その時は、このバッヂを眺めながら考えたことが、きっと役に立つだろうと思う。当たっているかどうかはともかく、だけど。


参考資料:「朝鮮民主主義人民共和国建国期における地方政権機関 −人民委員会の形成と金日成体制の成立−」 中川雅彦、2000.9 日本貿易振興会アジア経済研究所
       「輝かしい生涯」1995.6 平壌外国文総合出版社


(2008年5月18日)